第6回
株式会社毛利商会
(神戸市長田区苅藻島)
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こんにちは牧牛(ぼくぎゅう)です。
今回の訪問先は神戸市長田区苅藻島町3-7-5の(株)毛利商会さんです。
応対して下さったのは会長の毛利叡暉(もうり・よしき)さんと社長の毛利政彦さんです。
先ずは長幼の序で毛利会長からお話を伺いました。
牧牛は会社のルーツというか歴史に興味があります。
会社の生い立ちからインタビューをスタートしました。
毛利会長は昭和16年7月生まれ、
この7月で業界に入って50年になるそうです。
会社の創業者は父上に当たる毛利当正(もうり・とうただ)さん、
大正5年生まれ。
三重県は熊野の出身で毛利会長の本籍は今でも三重県熊野だそうです。
当正さんは16歳くらいの頃神戸の材木屋さん[権田(ごんだ)木材]で修業されました。
そのお店には兵庫の大西さんや神戸建材の小田さん、
柳原木材さんらが働いてらしたそうです。
錚々たるメンバーですね。
今現役で活躍されている方々の先代、先々代に当たります。
そして当正さんは湊川神社の近所で独立開業しました。
20歳の時です。
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昭和23年の福井大地震のあと復興資材として大量の木材を現地に送り込み、
進駐軍関係の仕事が多かった阪神建設に納材して商売は繁忙を極めていました。
ところが当正さんは病弱だったのです。
約2年の闘病生活を経て故郷の熊野に戻り、
今度は製材業を営まれました。
そして、昭和31年、再び神戸の地に戻ってきました。
牛肉で有名な「三ツ輪」の東南、進駐軍のキャンプがあった付近です。
間借りだったそうです。
知人、友人、得意先はたくさんあったが商売としては全く「ゼロ」からの出発でした。
「神戸建材さんや大西さんにいろいろ助けて頂いた」
と毛利会長。
それから2年ほどして生田区(現中央区)の通称「楠6(くすろく)」に毛利木材の店を構えました。
現社長の政彦さんはここで生まれました。
今でも毛利商会の看板が上がっています。
中々、苅藻島が登場しませんね。
神戸港と言えば古くは平清盛が開いた原点ともいうべき大和田泊(おおわだのとまり)が有名です。
苅藻島は明治32年に完成した兵庫運河を開削した土砂で埋め立てられた人工島で、
ほんの10数年前までは運河や堀に原木丸太がぎっしりと浮かんでいました。
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「カルモ島進出は少し遅れた。まずは倉庫に利用しようとして進出、
昭和47年に本社機能を移転した。
会社の称号も毛利木材商会から法人改組して株式会社毛利商会に変更した」
と毛利会長。
牧牛は質問しました。
「会社名から木材が抜けていますね」
と。
「木材だけではあかんと思い屋号を変えた。
そのきっかけはビルの見積もりだった」
と毛利会長は次のように話して下さいました。
「当社の得意先のほとんどが地場の工務店(ゼネコン)です。
その得意先からビルの見積もりがありました。
予算を聞くと100万円、
しかし見積もってみると木材はたったの10万円しかなかった。」
木材がほとんどないのです。
「相手先から『おまえとこもやらんかい!』と言われ、
水廻り、建築資材、軽量鉄骨(軽テン)等を扱いだした。
父は病気がちだし、自分も若かったからね。
思い切って踏みこみました。」
余談ですが、
毛利会長はこの春の総会まで2年間神戸木材業協同組合の理事長を務められました。
神戸木協中興の祖的な存在です。
木材の全盛時代、
カルモ島は全部材木屋さんでした。
松原の市場と兵庫駅前の市場の2市場が集約して神戸木材市売となり、
昭和40年代〜昭和50年代にはカルモ島の木材業は隆盛を極めました。
「小学校の1年から5年までカルモ島に住んでいました。
目覚まし時計が2階の刻み場の音でした」
と毛利政彦社長はその当時を振り返って話して下さいました。
早朝から大工さんが来て木を刻んでいる光景が目に浮かびます。
懐かしいですね。
やっと毛利社長が登場してきました。
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毛利政彦さんは34歳の時に父上から社長を譲られました。
毛利叡暉社長は当時60歳。
そのへんの経緯について毛利会長は
「私自身早く社長になった。
自分が思うようにやってきたし自己責任を貫いてきた。
必死になって長いことやってきた。
若いうちに譲る方が良い。
戦後すぐはみんな若いときにやってきた。
若くして責任をもてば2代目、3代目の甘さが必然的になくなる」
と話して下さいました。
その言葉を受けて政彦社長は
「自分でも早すぎると思った。
正直言って嫌ややった。
21世紀とともに私の社長業はスタートしました」
と。
毛利政彦さんは昭和41年生まれ。
東海大学政経学部を卒業し平成元年、
興国ハウジング(現ジャパン建材)に入社しました。
その当時はバブル経済絶頂期です。
「新人なのにボーナスが年4回でましたよ。」
3年間の修業を終えて家業に戻った毛利社長は
「ええ目と悪い目が繰り返し襲ってきた。
1番目が阪神大震災、次に震災後の復興需要、そして今度の百年に一度の大不況。」
一喜一憂しても時代はそれなりに流れるものですね。
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「一般の方にも扱い品目ならなんでも喜んで販売しますよ。
リフォームもやります。
ネットや電話での問い合せも多く、
その都度丁寧に応対しています。
材木屋の古いイメージの打破を目指しています。
木のオモチャや店舗関係、公園の遊具まで、なんでもトライします。
相手が求めるイメージを柔軟な頭で対応すれば活路は拓きます。
材木屋の既成概念にとらわれたらあきません。
陶芸を趣味とされる定年すぎの方に焼き杉の木目を提供したり、
お好み焼き屋のリニューアルでオブジェとして古木的な床柱を提案したりしました。
皆さん、喜んで頂いてます。」
「営業が主体です。待ちの商売はあかん。攻めて行きます」
と毛利社長。
「10年ほど前までは大工さんがバリバリやっていた。
その時は大工さんが木や現場のことを良く知っていた。
だが今は違う。
大工さんが相談に来る時代になった。
材料を売るだけではなく現場知識が必要。
材料プラスアルファが必須です。
お客さんのニーズが広がり昔の感覚では時代遅れになる。
エンドユーザーの気持を把握する。
そのためにもやはり勉強しなくては…。
引き出しは多いほうが良い」
と持論を展開し
「私は現場主義です。
必ず見に行きます。
お客さんが喜べば→毛利に相談してよかった→次の仕事に繋がる、という流れになります」
と話して下さいました。
社内でも事務の女性に至るまで
「注文された材料の用途を聞きなさい。そしてきっちりと答えなさい。」
を徹底しているそうです。
ホームセンターとの違いというか差別化を意識し
「これが材木屋本来の仕事だ」
と位置づけています。
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毛利社長は兵庫県木材青年クラブの会長職を務められた神戸木材界の若手経営者のホープです。
木材業界のホープに牧牛はエールを送ります。
毛利会長、毛利社長、長時間ありがとうございました。
取材日:2009年5月23日