第2回
株式会社有馬商店
(淡路市富島)
こんにちは牧牛(ぼくぎゅう)です。
「淡路島 かよふ千鳥の鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守」
と小倉百人一首に謳われた淡路島、
今回の訪問先、(株)有馬商店さんは淡路市富島908-3にあります。
大阪人の牧牛にとって淡路島は観光地です。
大阪市内から車を駆ってどれくらい時間がかかるのか電話で確認しました。
「1時間で来るよ」
の返事。
「まさか?1時間なんて」と半信半疑でしたが1時間で到着しました。
明石海峡大橋の通行料は往復5千円ほどかかりましたがなんと近いことかを実感した次第。
淡路島といえば1995年(平成7年)の「阪神淡路大震災」が記憶に新しい。
有馬商店さんのある富島地域は野島断層のすぐ近くです。
訪問先に近づくにつれて付近の家々の新しいのが気になりました。
震災の被害に遭われたのだなあ、と思いました。
応対して下さったのは社長の有馬永典さんです。
お孫さんが膝から離れません。
「うちの事務所と工場が近所の子供たちの遊び場になっているのですよ、
安全だから」
と有馬社長。
早速、有馬商店さんのルーツから伺いました。
ところが有馬社長は
「家内のほうが詳しい」
と言って奥さん(喜美子さん)に助けを求めるのです。
何かと言えば「家内に、家内に」です。
まさに「家内安全」=夫婦円満を絵に描いたようなご夫婦です。
創業者は父上の有馬末次(すえじ)さん、
昭和10年当地で開業されました、
法人改組は昭和49年です。
この創業にまつわる話が面白いと言うか、
牧牛にはとても興味深い淡路島らしい物語だったのです。
元々、
末次さんは船長さんでした。
当地、旧北淡町富島は、
かつて九州、対馬、韓国方面で獲れた鮮魚を活かしたまま大阪まで持って行くための寄港地として有名だったそうです。
当時は船主が10社以上あり、
それはそれは栄えた地域だったのです。
牧牛は、
大好きな司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」の主人公高田屋嘉兵衛を思い出しました。
高田屋嘉兵衛は淡路島の船頭だったのです。
その船頭さんだった父上がなぜ材木屋になったか?ですが、
有馬社長は続けます。
「親父ら兄弟5人は船乗りをしていたが、
内3人が同じ船で玄界灘で遭難した。
それを機に親父は陸に上がった。
ところが陸に上がったカッパ同然。
仕事がない。」
更に続きます。
「鮮魚は「トロ箱(木製)」に詰めて船で運んだ。
親父はその『トロ箱』に目をつけ、扱いだした。
それが木材業へのきっかけになった。」
やっと、話の筋が見えてきました。
「トロ箱」の材料仕入に始まり
機械を購入して製材にまで手を広げた。
製材から発生するオガ屑やカンナ屑は風呂屋に販売、
風呂屋はもっともっと欲しいと言う。
そこで和歌山からオガ・カンナ屑を仕入れる。
オガ・カンナ屑だけでは面白くない、
それじゃー、とばかり木材の本体まで仕入れる、
といった具合に商売が次々と発展していったのです。
船頭さんから材木屋さんになった珍しい物語です。
現社長の有馬永典氏は昭和21年12月生まれ。
「親父の背中を見て育った」
という同社長は明石商業高校卒業後すぐに家業に就かれました。
「入社当時は親父の子飼いが6人、
自分は7番目の丁稚として朝から晩までこき使われた」
と下積み時代の苦労を話して下さいました。
18歳から結婚する26歳までの丁稚奉公で木を覚えた。
同じ木でも違う、自分で考えろと躾けられた。
23歳で仕入を任され、
市場での仕入は在庫のあるものを買えと仕込まれた。
「間太(けんた…1間の丸太のこと)の尺(しゃく…径級)の松丸太かつげなかったら一人前ではない、と言われた。
リフトがなかったからね、
今でも肩に毛が生えているよ。」
牧牛は思います
「有馬社長は最後の材木屋世代だな」って、
今の若いもんにはできない事です。
震災後に建築部を本格化させた。
それまで何とかしないと材木屋は生き残れない、と感じていた。
震災後の特需で大工・工務店が復活し、
加えてハウスメーカーが参入してきた。
元々、大工・工務店には営業力はない。
ベニヤ板に漫画みたいな図面を描いていたのではお客に対して説得力がない、絶対に負ける。
そこで、1999年に「あわじ匠グループ」を立ち上げた。
「資金は有馬商店が出す。営業をやろう」
と大工・工務店、設計士を組織化、
長男(崇充さん)と次男(輝行さん)の二人を専従者として送り込んだ。
長男は近畿大学法学部出身ながら独学で2級建築士等の資格を取得した。
次男は大阪産業大学で土木工学を学んだ。
二人の息子に建築分野は任せている。
子供に木材をさせない理由は、
「今は昔と違って木の修業がいらない。
残念なことだが木を知らなくても商売が出来る時代になった」
と有馬社長は話す。
そしてご本人はと言えば木材にかかりっきり。
「木は捨てがたい魅力がある。
淡路には木にこだわる客が多い。
番頭と二人で100年生超のヒノキの逸品を集めている。
ヒノキは兵庫・京都の奥のヒノキが最高や。
遠くから有馬商店に良いヒノキがあるといって求めてくる。」
と誇らしげに製材所に並んでいる素晴らしいヒノキを見せてくださいました。
平成7年の震災で全部失くした。
どうしようかと思案したが
「材木しか知らん人間やもう一度やろう、
息子もいる。
二代目としての矜持もある。
少しでも大きくして三代目に引き継ぎたい。」
との思いが勝った、と有馬社長。
昭和48年にも火災でえらい目に遭ったそうです。
そして節目節目にはいろんな人からの助け舟があったそうです。
木材業界に対して
「震災後、
当地にもハウスメーカーが参入しローコスト住宅が増えてきた。
材木屋の生き残る道をどこに求めるべきか常に考えてきた。
しかし、
今の材木屋は木のことを知らない。
待ちの商売ばかりや。
材木で飯を食うという気概が感じられない。
ハングリーさが欠けている」
と辛口のコメントを伺いました。
最後に有馬社長について。
牧牛は過去幾度となく有馬社長に会っています。
背が高くて(178cm)ダンディでオシャレ、遊び人の風情が漂っています。
ところが意外な事に仕事一筋人間、そして愛妻家なんです。
人は見かけによらないもんだなあと実感しました。
取材を終えて帰り際に
「ちょっと自宅を見てほしい」
と誘われました。
写真でもお分かりのように素晴らしい純和風の木造住宅です。
もちろん自社施工です。
ご自分が彫られた木彫りの作品も拝見しました。
「このままでも高級料亭で通用しますね」
と言ったら、にんまりされていました。